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ワンウェイトリップ(PLO通信57号、2007年3月)
山口 篤
また北大水産学部の研究室の名称が変わる。もう何回目であろうか。長年続いていた水産増殖学科浮游生物学講座という名称がつい10年前に変えられた。一度いじってしまえば着物の仕付け糸が外れたのと同じで、古くからの伝統は急速に失われていく。今では旧講座が無くなり、新たな分野に人員が廻されているなどは日常茶飯事である。さほどに変える必要があるのであろうか。だれがこの改革を望んでいるのか、みな疲れた顔をしている。改革のための改革で、上から言われたからしぶしぶやっている節がないか。誰が言っているのか。文部科学省?政府?国民?単なる役人の点数稼ぎの机上のプランが、少数の人数の決済を経て降りてきたものなのではないか。なぜこんなにめまぐるしく変える必要があるのか。なぜ最初からベストな成案を作れない。Noといえない私たち、行き着く先に光はあるのか。
人生はすべからく一方通行である。その時に良かれと思ってやった事が、次の時代にはやはり間違っていたと言っても、もはや元の状態に戻る事は不可能である。時間軸という一方向に常に動く。推進力は止まらないから、一度切った舵は小さくとも、時間が経つにつれてそのずれは顕在化する。もっと判断に冷静沈着さが求められるべきではないか。後世に責任を問おうにも、人はすべからく引退し、変わっていく。かくして「ぶつ切れ」の技術、受け継がれない伝統が増えていく。性急な改革は急速に文化の継承を困難にしていく。受け継がれずに消えてしまった文化の恨み言が聞こえないか。(読者はここで「MTD工房」の出版を祝うべきであろう。まさに「21世紀に間に合いました」。このタイミングを逃すと永久に失われてしまうかもしれない大切な事柄を「受け継ぐ」ことは出来なかったかも知れないが、「記録として残す」ことはまがりなりにもできたと思っている。)
かつて函館は北洋漁業の一大基地として華やかりし時代があった。いまや水産学部に入学してくる学生の大半はそんな伝統は知らない。戦後から25年ぐらいに限定される話であったから知らないらしい。今はインターネットでいろいろなものが調べられる。非常に便利になってきた。ただ、インターネットに載っていない情報は「ない」ものと考えていないか。インターネットに載っていないので「それはない」というのは正しいのか?その、インターネットに載っていない情報に大事な事がなかったか。だいたい敬う心や向上心、道徳なんて「心」をインターネットでどうやって伝える。
私も35歳になり、社会人中堅としての役割をこなすようになって、社会生活を送る上で一番大切な事が今ならわかる。自分だけの得を考える利己的な態度ではなく、公共・全体(みんな)のためを考えること。正義や道徳を重んじること。礼儀作法はちゃんと内容が伴った、心からの発露であるべきであり、形式だけの礼儀(スーパーやコンビニでの店員の応対を見るべきである)というのは百害あって一利なしで、相手を敬うこととは全く別なこと。子供の頃からのしつけの何と大切な事かということを思わざるを得ない。いま挙げた条件は社会人として「普通に」生活をする上で欠かす事の出来ない「必要条件」である。こういう常識を身につけている人の話ではないと、周りはまじめに聞いて、とりあってくれない。心すべきであろう。それらを踏まえた常識的な、周囲に迷惑と摩擦を起こさない社会生活があった上で、「さて、それではあなたは何をしますか、何をされますか」という世界が拡がるのである。
ゆとり教育の失敗はこういった基本条件を無視して、その子供の人格形成を子供自身に任せたところにあるであろう。人間が自主的に行動するためには、その前に、その行動を決めるしっかりとした価値観と人格が獲得されていなければならない。しかし、その順序が逆になり、人格を形成する前に、先に「自由に自分らしくやりなさい」なんて言われるものだから、どうしたらよいのかわからず、ちょっとしたつまずき(本当に大したことではないのだが)で傷ついて、自分だけの世界に逃げ込んでしまうのである。ああ、先に彼ら彼女らの精神力を鍛えて、確固とした人生の価値観や人格が形成されていたら、きっとつまずいたとしても、その傷にめげることなく、雄々しく羽ばたけていたのにと思わざるをえない。
厳しい事を言うようだが人生には「たら・れば」はない。なぜなら前述のように常に時間軸の方向に動いているからである。人生は常に「どうしますか」というカードの切り方が求められる、ワンウェイトリップなのである。練習なんて無い。待ったなしの実戦なのである。もちろん最初から上手にできる人なんていない。誰にでも失敗はある。でもその失敗を受けてどうするかは、人によって大きく違う。例えば「同じデータを持っていてもそれをどの程度にまとめる事が出来るかは、本当にその人の知識や経験次第」なのである。今になって思うのだが、イチローや中田英寿とかその世界で一流と呼ばれる人達は、最初の人格の形成、人生の価値観の決定が強固にあり、揺るがなかったが故に、ちょっとした失敗でもめげることなく、迷うことなくそれぞれの道に邁進する事ができ、今の状況を手にする事が出来たのだろう。失敗しても良いのである。大いに失敗を楽しんで、勉強すればよい。失敗は教訓を学ぶ良いチャンスでもある。人生は勝ち負けじゃない。でももし勝ち負けだとしたら、どっちにころぶにしてもその確率は1/2である。だって「勝ち」か「負け」しかないんだから。それじゃ前回は負けたから、次は勝てるさ、だって今の俺は以前の俺じゃないんだから。そう考えれば次の挑戦が楽しみになるであろう。
大事なことは、これが自分の行き方だ、自分の仕事だと決める事である。好きだから、面白いから、人のためになるから。動機は何でも良いと思う。その「自分はこうやって生きていきたい」という人生の価値観があれば、別にそれ以外の所は妥協しても全然問題はないであろう。でも大事なのは、常に「謙虚な心」を忘れないこと。社会人としての常識です。上を見ればきりがありません。本当にすごい人がいっぱいいます。そんな方々に比べたら私なんて大したことがありません。よく解っております。でも、いっぱいいっぱい努力して、いつか、いつの日にか追いつきたいと思っているんですよ…。その心根が大切なのだと思う。
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北海道大学大学院 水産科学研究科 多様性生物学講座(プランクトン教室)
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