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適正密度?(PLO通信55号、2005年3月)
山口 篤
これから最近少し考えていることを書いてみたいと思う。まだうまく考えがまとまらないところもあり、独断的な部分も多々あるかとは思うが、どうぞご容赦いただけたらと思う。考えているテーマは人間の適正人口密度ということである。こういったテーマを考えているといって、別にどれが良い、どれが悪いということをいうつもりは毛頭無く、また全体主義的な考えからこういうテーマを考えているわけではない。人口密度がどのように人間の思考に影響を与えるかという、どちらかというと人口密度を受けての人間の判断・行動に視点の力点がある。こういうテーマを思い立った理由としては、2004年にあったアメリカの大統領選挙である。この選挙は、どちらかというと保守的なブッシュ大統領と改革的なケリー候補が争ったもので、結果としてはブッシュ大統領の方が勝ったのだが、結果はこの場合問題ではない。私が注目したのは、その勝った州の分布が非常に対照的であったことである。ブッシュ大統領は(どちらかというと)田舎の中西部で勝利し、ケリー候補は都会(ニューヨーク、カリフォルニア、ワシントンなど)で勝利を収めていた。都会と田舎の差はいわゆる人口密度の差である。都会と田舎の差はそれ以外にももちろんあるが、ここでは問題を単純化するために、あえて人口密度にのみ注目してみる。私はこの人口密度の差が人々の意識に何らかの影響を与えているのではないかと思う。
人間の人口密度が高ければ、他の人間と円滑に過ごすためのルールというものが有形・無形にしろ多いに発達するところは皆さん納得できることであろう。これは例えば、電車を待つ際には左右に別れて待ったり、エスカレーターでは左右どちらかを開けるといったことである。そういった中で人々はルールを作り、こうあるべきであるという理想を作るのかと思う。そのルールは時と場所によって異なることも学ぶ、多様な価値観があり、相対的な思考方法を学ぶのであろう。一方人間の人口密度が低ければ、つきあう人間の範囲というのは自ずと限られる。そこで大切なのは相手のことを理解して思いやることであろう。そのつきあう相手はかけがえのない人間であるから、その相手と良好な人間関係を築いていくために理解をし、努力する。ただ、狭いコミュニティであるから価値観は単純かも知れないが、それだけにその価値観は強く、そして絶対的なものであろう。
改革というのは今までに無いものを造り出すことなので、その結果がどうなるかは誰にも分からない。しかし、改革するほうとしては「こうすればよくなるであろう、こうすればよりよい」という理想があり、そのための枠組みを作り、ルールを定めたいというのが改革であろう。この新しいルールを作るという作業は都会の人間が日常的に行っていることであるので、相対的に都市部の州で改革派が支持されやすいのは何となく分かる。一方、ルールや価値観が単純な田舎では新しい価値観を導入することが少なくても暮らせるので、保守的な意見の方が大勢を占めるのではないだろうか。
こう書いてきて、人口密度というよりは単なる都鄙論になっているような気がするが、それは結果としてそうなっているだけである。強調したいのは人口密度の多寡が人間の判断・行動にどのような影響を与えるかである。今回はその判断・行動の例として「改革を求めるか、求めないか」をとって考えてみた。
私はこれまですんだことのある町は時系列順に行くと「仙台、札幌、函館、大阪、そして再び函館」である。それぞれの街では互いに異なる様々な出会いがあり、それを受けて私自身も変わってきたことを感じている。しかし、前記の「人口密度が人間の意識、判断行動に与える影響」をこと自分に置き換えて考えてみると、いつでも(どこにいても)少しずれている自分を感じざるを得ない。こうして私は自分自身を知る。そうか、私は意固地で頑固な人間なのだと…
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北海道大学大学院 水産科学研究科 多様性生物学講座(プランクトン教室)
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